夢を、見ていた。

青い、焔の夢だ。

 まるで鼓動するかのように音を立てる、焔の夢だ。

だけど焔は湖の底で、僕は湖の淵にいる。

 飛び込むなんて出来ない。その湖は深すぎた。

飛び込むなんて出来ない。その焔は遠すぎた。

 でも、僕は、その焔に焦がれるような思いを抱いていた。

心が灼ける。でも、飛び込むなんて、出来ない。

 涙が、溢れた。

――と。

「――!」
 ベルを打ち鳴らしその役を果たそうとする目覚まし時計に飛び起きた少年はまるでいたわるかのようにそのスイッチを押し込んで止め、そして次にカレンダーへと目をやった。
デジタル式のそれは音一つ立てず今日という日が八月二十九日であることを少年に伝えた。そして眠気に目を擦ってベッドサイドから市販の目薬を取り上げて差すと屋内用のサングラスを掛け、軽く身を曲げのばしするとベッドから降りると抜けきらない眠気の抵抗を受けながらも普段着に着替え、リビングへと出た。
 少年の名は、深海灯澄(ふかみひずみ)。香(こう)という名で小説を書く、弱冠14歳の小説家だ。
処女雪を思わせる白い肌と色の抜けた髪、そして恐ろしく色素の少ない瞳。それが彼の特徴だった。
 彼の体には、メラニン色素が極端に不足していた。
故に外出時は特殊繊維の帽子と長袖で素肌をカバーせねばならず、カバーしきれない部分には日焼け止め。見えないこともないもののあまりよくなく、光にも弱い目にはサングラス。かなり特殊な境遇ではあったが、しかし、それでも彼は生きてきた。
 そして、もう一つ特徴があった。
 ──呼び鈴。玄関へ走った灯澄がドアを開けると、そこには、彼の担当──大和武弘(やまとたけひろ)が私服姿で立っていた。
「おはよう、深海君」
「……おは、よう……ございます」
 言語障害である。
彼の言葉は、常にのんびりとしているかのように聞こえる。しかしそれはしたくてしているわけではないのだ。彼はどういうわけか発声に時間がかかる。故に、会話ものんびりとしたものになる。しかし、それだけのことなのだ。
「……今日、は?」
「遊びに来た、といったところかな。調子はどうだい?」
「……そこ、そこ」
「そりゃあよかった」
 そういえば、と、大和は鞄に手を突っ込んでまさぐり、
「こいつを忘れるところだった。 ──昨日あがってきたものですよ、香先生」
「ありが……と」
 取り出されたのは、三冊の文庫本。
タイトルは、<再約 新世紀エヴァンゲリオン>。

 

Neon Genesis EVANGELION
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 青い焔の見た夢は


#00 World for You

 

「……」
 しばらく会話した後、大和は電話で呼び出され去っていった。ひとまず家の中に戻った灯澄は、まだだった朝食を済ませると──コーヒーにパン一枚とサラダというとても簡素なものだった──、まず彼がしたのは、仏壇に向かい祈ることだった。
彼の両親は他界していた。僅かに一年と半分ほど前の出来事だ。彼の両親は資産家だった。様々な事が降りかかった。金融商品の勧誘に詐欺師、しつこく追い回してくるマスコミ。彼には泣く暇も与えられなかった。ほとんど分単位、秒単位で動きながら、彼はこの家を死守してきたのだ。
(だけど)
 それも終わった。ほんの少しずつ作った時間を使い書いてきた小説が認められ、夢叶い彼は小説家となった。14歳にしてプロとなったのだ。もちろん、またもや色々と起こった。しかし彼は慣れていた。交渉し、言葉尻を掴み、時には公権力を借りた。
 リビングへ移動した灯澄は手にした文庫本を見た。<再約 新世紀エヴァンゲリオン>。その文庫本は、彼の四冊目──といっても、上中下の三巻なのだが──の本だった。

 新世紀エヴァンゲリオン。知っている人間は少なくないはずだ。
社会現象を巻き起こしたとすら言われるそれの人気は、今でも衰えこそすれ健在で、むしろ最近は盛り返しつつある。
結果、生まれたのが<再約 新世紀エヴァンゲリオン>だ。ノベライズとして生まれたこれは、新たなる展開の象徴と言われもした。
 なぜ灯澄が選ばれたのか。それは分からない。気まぐれかも知れないし、単純に目に留まっただけかも知れない。
しかし重要なのは選ばれたのが灯澄であり、彼はそれを受けたという事だ。
 だからこそ<再約 新世紀エヴァンゲリオン>は生まれ、そして今、彼はその続編に近いものを要請されていた。
 ──ノベライズは二段構えだった。
まずは、原作に沿った、ごく普通だが出来のいいノベライズを。
そして、アレンジを加えた、野心的で新しい、いわば──パラレル・ノベライズを。

 灯澄は、文庫本から二冊をテーブルにおくと上巻を開いた。黒字に白く、「再約 新世紀エヴァンゲリオン」の文字が踊る。よく見れば、薄赤くネルフのロゴも入っていた。芸が細かい。
ぱらぱらとめくってゆく。時折挿し絵が差し挟まれていた。日常のもの、戦闘のもの──死のもの。
 彼はそこで本を置いた。三冊の文庫本を庇うように抱え込むと、自室へと戻る。その視線の先にはデスクトップ型のパソコンがあった。彼の商売道具にして相棒。黒字に赤くアクセントの入った筐体は「よう相棒、まだ生きてるか?」なんていいそうな風情だったが、これこそが、彼に残された唯一の、両親の形見だった。
そして彼は仕事を始める。パラレルの方も六割方は出来ていた。抱えていた本を注意深く机へ下ろして立てるとパソコンを立ち上げる。BIOSがシステムチェックを済ませ、OSがロードされ、システムが立ち上がりきるまでには1分もかからない。
設定通りにアプリケーションが自動起動していく。メーラー、テキストエディタ、セキュリティ──と、早速、メーラーが受信のアラートを上げた。受信件数84。大半はスパムとメールマガジンだ。セキュリティソフトが警告を発し、潜むウィルスを自動駆除。
 手早くメールをチェック。スパムをまとめて消去し、メールマガジンは斜め読みして今すぐ読むべき記事がないと確認するとメールマガジン用未読フォルダへと放り込む。仕事関連のメールは──版権元と、編集・大和からのものだけ。
──しかし、最後に一通だけ、スパムでもメールマガジンでも、仕事関連でもないメールがあった。
 アドレスは、連絡の絶えた親友のものだった。
今すぐ会いたい。お前の助けが要る。メールにはそうあった。
──外見故にいじめられていた昔、助けてくれた親友。
 会わない理由は、無かった。

 * * * 

 待ち合わせの公園は家から数分の所にある。日焼け止めを塗り、日光対策も万全となった灯澄は、そこで奇妙な事態に遭遇した。
「やあ、久しぶり。 ──探したよ」
「──!?」
 そこにいたのは、銀髪赤目にアルカイックスマイルを浮かべた、空想上のはずの人外。
「──渚──カヲ、ル?」
「ふふ、水臭いな、君と僕の仲じゃないか。昔みたいに呼んでくれて構わないんだよ?」
 会った覚えなどない。そもそもお前はここに存在するはずのない存在(・・・・・・・・・・・・・・)なんだ。灯澄はそう心中に呟く。
気付けば、一歩二歩と後ずさっていた。
「──もしかして、覚えていないのかい?」
「……」
 退がる。
「そうか、転移のせいか」
 退がる。
「失う可能性があるとは聞いたけど」
 退がる──と、気付く。
退がれて(・・・・)いない(・・・)
「ふふ……気付いたかい?」
「!」
「君には逃げることなどできない。なぜなら、それは君の本質故に」
「──あ……!?」
 灯澄は半ばパニックに陥っていた。
自らの望む行動がとれない。心は退がることを命じるのに、体は退がるどころか、勝手に前へと進むのだ。
「君は、無意識に欲しているんだよ」
「……う、あぁ……」
「僕は、ね」
 カヲルが一歩を踏み出した。
「ひっ」
「君を待っていたんだ」
 ゆっくりと進んでくるその姿は何か強いものを発し灯澄を射抜く。
「うぁ……」
「……ふふ」
 目の前、距離にして三十センチもない先に、その紅い眼があった。
「もう、絶対に放さない」
 抱きしめられる。
「……おかえり、ヒズミ」
 額にキスを受ける、と思った瞬間、世界が黒に暗転した。

「……どうして邪魔するんだい、君は」
「必要だから」
「何故」
「あなたは性急すぎる。彼は失いすぎていたわ。それに……怯えていた」
「だからって……!」
「大丈夫。もう一度転移させたわ。 ──先、いくから」
「……ああ、わかったよ」
 そして、誰もいなくなった。